近所のとあるスーパーには入り口がいくつかある。その一つに、通路が狭いにも関わらず、容器回収ボックスが隣接してあるところがある。
そして立地の都合上、僕はこの入り口を利用することが多かった。
スーパーの容器回収ボックスで
ペットボトルが容器入れから溢れ、ありとあらゆる角度から積み上げられていた。そして、それらの前に佇み、睨み合っていた女子大生(たぶん)が見えた。
上からか、それとも横からか。
どこから積み上げようか悩みながら、あの手この手でシュミレーションをしていたのだと思う。
誰の目から見ても明らかだったことがある。
一つでも衝撃を与えたら全てが崩れてしまいそうな、繊細なバランスの上にペットボトルの山は築かれていたのだ。無秩序に積み上げられてはいるようで、どこか美しくもある。なので、見る人によっては一つの芸術作品に見えたかもしれない。
地面に置いて通路の邪魔になっていたり、牛乳パックやトレイのエリアに置いてあるペットボトルもたくさんあった。カン・ビンの他に牛乳パックやトレーなど、多岐にわたる。正直に言えば、よく見かける光景ではある。
「置くところがないから仕方ないよね、悪いのは私じゃないし」
そんな声が聞こえてくるほど、容器回収ボックスは溢れかえっていた。
でも、こういう「逃げた」人たちと女子大生は違った。
それを良しとしないのか、邪道と捉えているのか、はたまた眼中にないのかは知る由もない。ただ、それでもなんとか積み上げようとするあたり、高潔な精神の持ち主なのだと伝わってきた。
――これは、ジェンガや積木くずしといったゲームと似ている。
そう思ったが、すぐに否定せざるを得なかった。それもそのはず。家の中と公共の場所ではわけが違う。伴うリスクの絶対量がケタ違いだ。
しかし、裏を返せば得られるものもまた異なる。実戦でしか得られない経験値や考察力。
そう、女子大生は戦いの中で成長していたのだ。
ちなみに僕自身、「逃げた」ことは何回かある。
逃げた経験をあまり覚えてない=自分の手から容器が離れた時点で無関心ということなのだろう。
(まあ、この辺に置いておけばいいよね)
そういった今までの自分の認識の甘さが日常化していること。そして「逃げた」ことへの罪悪感を感じずに生きてきたことへの罪悪感を感じていた。
何より悲しかったのは、後ろから「わっ!」と驚かせたくなる自身の幼稚さを己の中に感じたこと。少年のような心を持った、と言い換えたいけれど……その時の僕の格好は、ジャージにメガネにサンダルに髪ボサボサ、眉毛とヒゲの手入れもしておらず、おそらく鼻毛も出ていた。そんな体たらくな人間が背後にいれば、怪しまれて当然だろう。
結局、最後まで見届けることは叶わず……僕はスーパーの中へ入らざるをえなかった。
でも、僕が背後から見守ったことが影響して、ガッシャーンと崩れてしまうことも考えられる。その場合、「あなたのせいじゃないです、あくまで自分が至らなかっただけです」と言われてしまうだろう。妄想の中でさえ、格の違いを見せつけられるとは……。
「リスクのないところに成長なんてない!」
と言わんばかりの行動だった。それはつまり、僕の見る景色と女子大生の見ている景色が全く異なるということ。
世の中、まだまだ捨てたもんじゃない。
高潔な精神の持ち主を見る度に、僕はそんなことを思う。
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